ゆらたくヒストリー


店長のレーシングヒストリー
第22話「悲運のマシン、紫電」

ボクの作品の中で、美しさで後世に名を残したという意味では、この「紫電」が一番かもしれない。逆に言えば、かっこは良かったけれど、結果が残らなかった悲運のマシンでもあるんだけどね。

70年代後半の高原選手は、ほんとにノリに乗っていた(彼のニックネームもノリだった!?)。まさしく高原時代だったよね。75、76年と富士GCシリーズを連覇して、76年はF2000でもチャンピオンを獲得。だから、特にGCに関してはもうやり尽くしたって感じだったんだろうね。それで、翌77年シーズンに向けては「オリジナルマシンでやろう」っていう話になって、シャーシから全て作ることになったんだ。当時、ボクが高原レーシングを手伝っていたってことも、オリジナルに踏み切った理由の一つだったかもしれない。

美しいフォルムを持った紫電。そのデビューは注目を浴びた((株)三栄書房 オートスポーツ 1977年8月15日号)

シャーシは森脇基恭、ボディカウルは由良拓也、製作は岡崎の伊藤レーシングと、当時としては、それなりに一流どころが集まったプロジェクトだったんじゃないかな。
この頃はボクもノっていたから、新たな挑戦に気合い十分。今までにない試みとして、空気抵抗が良さそうなクローズドボディを採用することにしたんだ。もちろん、これは富士スペシャルとしてストレートスピードを上げることをコンセプトにしたもの。
後で思えば、これはかなり無謀な挑戦だったのかもしれない。クローズドボディは、全体に空力的な影響が出やすく、特に揚力によるリフトが問題になるんだ。これを抑えるのが大変なんだよね。

でも、このときは、クローズドなら雨のときもワイパーを動かして快適にドライブできるんじゃないか、なんてノンキなことも考えてた。とんでもない話だよね。事実、雨に なった77年のデビューレースでは、ガラスが曇って視界は最悪。元々悪い視界が、雨のせいでさらに悪くなって、その対策におおわらわだった。

あと、フロントガラスの重量もネックだったよ。あれだけの面積だとかなりの重量になるからね。今ならポリカーボネートなんて軽量のものがあるけど、当時はガラスしかな かった。それから、流線型の美しさを醸し出していたロングテールも、オーバーハング重量を増加させて運動性能を悪くしていたんだよね。


「紫電プロジェクトは日本レース界に光明を与えた」と往年の名ドライバー田中健二郎氏も大きな期待を寄せていた((株)三栄書房 オートスポーツ 1977年8月15日号)   マシン解説でも「流れるような美しいクローズド“ボデー”」とその美しさは誰もが認めるところだった((株)山海堂 autotechnic '77年5月号)


居住性も極端に悪かったみたい。ちゃんと高原選手に合わせて採寸したんだけど、計られる方も不慣れなこともあったんだろうね。あまりにピッタリすぎてちょっとキツキツに作りすぎたのかも。2002年に復元されたマシン見ても思ったよりコンパクトだったしね。

ま、そんなわけで、今思うと反省点が次々に出てくるんだけど、ボディもカウルも全くのオリジナルだったから、何が悪いのか原因を探るのが難しかったのも事実。どれか一つが決まっていればよかったんだけどね。独立したウィングに変更したり、テール切ったり、屋根の真ん中切り取ったりしたけど、効果はあんまりなかったなぁ。結局何が悪かったのかわからないままだった。

と悪いことばかり並べているけど、ボディの美しさは高い評価を受けてたんだよ。カラーリングもスポンサーだった伊太利屋のイメージカラーのピンクを基調にして、ボクが デザインしたんだ。なかなか美しい仕上がりだったでしょ。

「流麗だった4日間」と題されたデビュー戦レポート。「今後の熟成は、日本のトップコンテンダーたる彼らのお手並み拝見」と結ばれたが……。((株)山海堂 autotechnic '77年8月号)

でも、まぁレーシングカーの価値はやっぱり速さだからね。あまりに改善の兆しが見えない紫電は、早々に高原選手に見切られちゃった。シーズン途中でさっさとシェブロンに乗り換えちゃってね。まぁ、オーナードライバーだから、その意向が最優先。仕方ないよね。

でも、メンテナンスを請け負っていたグランドオートの小倉さんが、何とかしようと、シャーシをマーチに変えたり、ロータリーエンジン積んだりして、色々改造していったんだ。
そして、翌年は紫電改として、当時駆け出しだった関谷選手も乗ったりしたけど、結局結果は出せないままだったね。

(次回「甦った紫電」へと続く)



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