ゆらたくヒストリー


店長のレーシングヒストリー
第20話「星野が燃えた!逆襲ならなかった78年JAFグランプリ」

ヨーロッパ遠征で惨敗を喫し、井の中の蛙状態であったことを思い知った1978年。全日本F2選手権シリーズの最終戦JAFグランプリには、本場のドライバーが大挙来襲することになった。その顔触れはといえば、ブルーノ・ジャコメリ、デレック・ワーウィック、ルネ・アルヌー、ディディエ・ピローニ、リカルド・パトレーゼなど、後にF1ドライバーになる実力派ばかり。

ヨーロッパで苦渋を舐めさせられた星野さんにとって、ここは迎撃しなきゃプライドが許さない場面だった。燃える男・星野一義は、帰国後もヨーロッパの悔しさをずっと胸にしまいこんだまま国内シリーズを戦っていたんだ。当時から星野さんの勝負に対するこだわりは凄かったから、庭である鈴鹿では絶対に仕返しをしようとメチャクチャ意気込んでいたんだ。
このレース、なぜか僕は観客としてヘアピンで観戦していたんだけど、コース脇から見るボクにも星野ノバ532Pの気迫は伝わってきていた。

本場ヨーロッパF2チャンピオンのブルーノ・ジャコメリをはじめとして実力派が大挙来日した。((株)三栄書房 オートスポーツ 1978年12月15日号)

レースも残り10周を切ったところで、予選3位からスタートした星野さんは、ポールポジションスタートのジャコメリを出し抜いてトップを快走していた。「これでヨーロッパの借りが返せるなぁ」なんてボクもその姿を見ながら、悔しい思いをした遠征のことを思い出したりしていたんだ。

ところが、あろうことか、星野ノバはヘアピンで突如スローダウン。そのままコースサイドにストップしてしまった。原因はまたもドライブシャフトの折損だった。ボクはすぐさま、マシンを降りてコースサイドで呆然とする星野さんに駆け寄った。

トップを快走していた星野選手は、残り10周でリタイア。欧州挑戦の雪辱はならなかった。((株)三栄書房 オートスポーツ 1978年12月15日号)

すると、星野さんは「ジャコメリを返り討ちにして、星野ここにありというのを見せたかったんだ……ちくしょー」って、悔しさをあらわにして号泣するんだ。ボクも思わずウルウルしちゃってね。その場で一緒に涙を流した。それは、一緒に極東のレース後進国からヨーロッパに殴り込みをかけ、打ちのめされて帰ってきた者同士にしかわからない気持ちだったと思う。

ボクのカウルは富士、鈴鹿スペシャルで、セッティングレンジの幅がなくて星野さんには辛い思いをさせちゃったけど、星野さんと一緒に仕事をできたのは幸せだった。今は同じチームオーナーや監督という立場でレースに関わっているけど、ドライバー時代の星野さんはほんとに魅力あふれる人だったよ。レース前、体中にじんましんが出来るほど入れ込むドライバーなんて、もう二度と出てこないんじゃないかな。浪花節だったけど、凄いドライバーだったよね。

大逆転でレースを制したのは、38歳のクニさんだった。((株)三栄書房 オートスポーツ 1978年12月15日号)

この78年でノバのフォーミュラカーシリーズの開発は終わることになる。経営上の問題とか色々あってノバが解散しちゃったんだ(その後再び活動をはじめるんだけどね)。そして、翌年こそノバやコジマという国産マシンがちらほら出場したけど、80年からはマーチをはじめとする外国製マシン一色になっていく。その後、国産マシンが再びトップフォーミュラシリーズに登場するには10年近い歳月を要することになるんだ。そのマシンは、88年にウチが送り出したオリジナルマシンMC030なんだけどね。

もし、あのまま国産フォーミュラの開発を続けていれば、日本のレース産業、特にコンストラクターを取り巻く環境は違ったものになっていたんだろうなぁ。と、ふと懐古趣味のオヤジになる由良サンであった。



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