ゆらたくヒストリー


店長のレーシングヒストリー
第19話「星野+ノバ532Pによる欧州遠征(井の中の蛙編)」

1978年、本場に殴り込みをかけたヒーローズ&ノバ一行の緒戦は、フランス郊外のルーアンという市街地コースだった。路面の一部は石畳だったり、クローズドサーキットしか知らないボクたちにとっては、コースを見た時点で軽くジャブを食らった感じだった。膨らんでいた期待はちょっとしぼんで、不安がそこに入り込んできた気がしたよね。

そして、向こうのチームは当時すでにトランポ(トランスポーター/移動用積載車)で転戦してたんだ。それに対して、こちらは幌付きトラック。おまけに割り当てられた作業スペースは土。土間作業には慣れているボクもヨーロッパにきて、こういう環境でやるとは思わなかったから、さすがにミジメ〜な気持ちだった。

土の作業スペースからパドックへクルマを移動中。((株)三栄書房 オートスポーツ 1978年8月15日号)

でも、最初が雨のセッションになって、気持ちは上向いた。ブリヂストン(BS)タイヤのおかげで予選1日目、星野さんは2位という快走を見せたんだ。このときはイケルぞって皆思ったよ。BSのレインの良さは昔からの伝統だね。でも、ドライになると3秒も遅いんだ。これにはガックリ。

この原因は、ひとつにはシャシーの古さ。本場のF2レースは毎年新車があたりまえ。この年もマーチ782とシェブロンB42が大半を占めていた。そこにボクたちが持ち込んだノバ532Pは、ボディこそ見劣りはしなかったものの、シャシーは4年前のノバ02をベースにしていた。ガラ(五十嵐)さんなんて、「おい、人が見ているときはカウルあけるなよ。中は戦車だからよー」とか言ってたっけ。

欧州挑戦緒戦となったルーアンF2。この頃はブルーノ・ジャコメリが飛ぶ鳥を落とす勢いだった。((株)三栄書房 オートスポーツ 1978年8月15日号)

もうひとつの原因はカウル。空気抵抗を減らしてドラッグを少なくしたボクのカウルは、いわば高速の富士、鈴鹿スペシャル。ところが、ヨーロッパのマシンはテクニカルなコースに合わせてダウンフォース重視のスタイル。全くコンセプトが異なっていたんだよね。
ダウンフォースが不足しているからタイヤ温度が上がらない、グリップしないという最悪のパターンにハマってしまったんだ。ガーニーフラップのようなものをフロントノーズに追加してはみたものの、焼け石に水。スポーツカーノーズじゃ、調整の幅は僅かだからね。

そして、さらにテクニカルなコースゆえ、アクセルのオン、オフが多く、駆動系への負担も増すことになり、結果ルーアンのレースは予選15位から追い上げをしたものの、ドライブシャフトが折れてリタイア。続くイギリスのドニントンサーキットもテクニカルなコースで、ここでもドライブシャフトが持たずリタイアとなった。当時使っていたのは、国産車では最も信頼性のあったGTRのドライブシャフトだったんだけど、完全に強度不足だったんだね。

2戦目のドニントンF2もリタイア。打ちひしがれて帰国の途につくことになった。((株)三栄書房 オートスポーツ 1978年8月15日号)

2レースを終えて、打ちひしがれたチームは参戦継続を断念。当初の予定を繰り上げて帰国の途についた。クルマが持たないんじゃ撤退するしか選択肢はなかったんだ。

「井の中の蛙大海を知らず」。まさしくそんなヨーロッパ遠征だった。このF2遠征に続いて中嶋クンのF3遠征があるんだけど、それも似たような結果だったことはすでに話したとおり。本場と交流のなかった当時の国内レースはちょっと特殊な性格を持っていたのかもしれない。って、それは今も変わっていないか。

でも、この年のJAFグランプリには、ブルーノ・ジャコメリら本場のトップドライバーが招聘され、国内勢と戦うチャンスがやってきた。このとき、迎え撃つ星野さんの気合いの入り方は半端じゃなかったよ。この話は次回。



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