ゆらたくヒストリー


店長のレーシングヒストリー
第16話「ワニが空を飛ぶ!?初の国産F2000マシンNOVA-02」

1970年代前半、ボクは高原敬武選手率いるタカハラレーシングのスタッフとして働きつつ、色々なマシンを手がけていた。その中でもフォーミュラからGCマシンまで揃ったノバシリーズはボクの代表作。この頃のノバ(今のノバ・エンジニアリングの前身)のマシンは、解良(喜久雄)さんと宮坂(宏)さんがシャシーを設計していた。ボクは宮坂さんと組んで仕事をすることが多かったんだけど、74年に初めて世に送り出したF2000(後のF2、今のフォーミュラ・ニッポンに当たるクラス)用のNOVA-02は解良さんの設計したシャシーにボクのカウルを組み合わせて生まれたマシンだった。

初の国産F2000マシンNOVA-02は話題となりAUTOSPORT誌の表紙も飾った((株)三栄書房 オートスポーツ 1975年4月15日号より転載)

「フライング・アリゲーター(空飛ぶワニ)」と命名されたこのマシンは、特徴的なシルエットを持っていた。ノーズ部分は名作と言われたフェラーリ312Tのイメージで造ったものなんだ。当時のニキ・ラウダの快走は鮮烈だったからね。スポーツカーノーズ主流の時代にあえてウィングカーにしたのは、ボクの考えじゃなくノバのリクエストによるものだったんだけどね。

この初の国産F2000マシンは、マーチ、ブラバム、サーティースなど外国製マシンがひしめく中、藤田直廣選手の手で74年の最終戦JAFグランプリに鮮烈なデビューを果たすは ずだったんだよ。でも、残念ながらレースウィークの練習走行で大クラッシュをしてしまい、結局このレースに出ることは叶わなかった。このときの藤田選手のチームは、チーム・フェニックス(不死鳥)。そう、74年富士GC悪夢の大アクシデントでこの世を去った風戸裕選手の遺志を継いで設立されたチーム。元々NOVA-02は風戸選手用に開発されたも のだったんだ。

オートテクニック誌でも特集企画が組まれた(写真提供:autotechnic '74年12月号)

翌75年、NOVA-02は正式なデビューを果たし、藤田選手がフル参戦。途中ウィングからスポーツカーノーズに変えたことで速さを増していった。リザルトは最高位4位、シリーズ6位というものだったけど、最終戦ではフロントローに並んで、その速さをアピールすることになった。
この年の活躍で、翌76年に開発された02の発展型のNOVA512は、藤田選手に加えて、高原敬武、星野一義、桑島正美など当時のトップドライバーが使うことになっていくんだ。

この後もノバブランドのフォーミュラシリーズは、522、532と進化するんだけど、この頃のボクは、フォーミュラカーをいかにスポーツカー的にするかということに傾注していた。空気の流れを乱すタイヤやサスペンションを隠して、どうやってスムーズに空気を流すかということばかり考えてたんだ。512Bでは、リアウィングに綺麗に空気を流すことを考えた末、横に飛び出したインダクションボックスの入口を塞いで、前方にエアの取り入れ口を作ったりね。最終型となった532Pでは、ボクの考えがかなりダイナミックにまとまったと思ってる。当時のボクの集大成ともいうべきマシンだったね。

ノバ02のから発展したノバシリーズは大活躍を見せた。左は512B(星野選手)、右は522(中嶋選手)((株)三栄書房 オートスポーツ 1977年10月1日号/11月15日号より転載)

後に「由良には空気が見える」なんて言われたけど、風洞もないこの頃、真剣に空力を考えていた人はあまりいなかったんじゃないかな。
この空気をスムーズに流すというのはもちろん大事なんだけど、レーシングカーにはもうひとつダウンフォースという大切なものがある。この2つのバランスが難しいんだよね。でも、当時はそれを深く考えるまでの知識もデータもなかった。この重要性を実感するのは78年の星野選手のヨーロッパ遠征に同行したときなんだけど、その話はまた後で。

それにしても、この頃、空気じゃなくて、もう少し人生が見えてればなぁ……今頃は大金持ちだったかもしれないのに。空気を食っては生きていけないんだよね。あ〜ぁ。おっと、話が脱線したけど、次回は75年のムーンクラフト設立ボンビー物語を披露したいと思います。



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