ゆらたくヒストリー


店長のレーシングヒストリー
第13話「進化したノバFJ1300。そして、欧州F3チャレンジへ」

ノバ(NOVA)といえば今はレーシングチームとして活躍してるけれど、70〜80年代は日本を代表するコンストラクターだった。以前紹介したレーシング・クォータリー・クラブから発展して、73年にノバ・エンジニアリングが設立されたんだけど、ノバシリーズとして多くのマシンを輩出したんだ。

ノバの名を冠したマシンは、僕にとってもすごく思い出深いものなんだけど、その理由はカウルデザインを手掛けただけじゃなく、マシンとともに海外遠征をしたからなんだ。今回から数回はノバシリーズについて、苦しくも楽しかった遠征の話を交えてお届けしましょう。

ノバのフォーミュラシリーズにはFJ1300(今のF3だね)とF2(今のフォーミュラ・ニッポン)があったんだけど、まずはFJ1300から話そうか。

これは初期型01のシェイクダウンのときの写真。富士なのでフロントウィングは取り外してある。X-15を真似て2分割されたスクリーンに注目。

FJ1300は73年から始まったカテゴリー。ノバはここに解良喜久雄さんの作ったスペースフレームシャーシ+僕がデザインしたカウルを纏った「ノバ01」を投入した。解良さんといえば、最近ではオートバックスが作ったスポーツカー「我来也(がらいや)」を手掛けた人。またトミーカイラシリーズの開発でもお馴染みだよね。

カウルはX-15という高速試験機(飛行機)のコックピットをイメージした僕のお気に入りの作品。スクリーンを2分割したりして、ちょっと遊び心を入れてデザインした。ノーズは解良さんの希望で最初はウィングタイプにしたんだけど、どうも結果が思わしくなかったので、レースを重ねるうちにスポーツカーノーズへと変化していった。ただ、改造を重ねてもあまり目ざましい活躍はできなかったなァ。73年は鮒子田選手がシリーズ4位を得たけど、この年は鈴木板金のベルコ98Aが速くてね。これにはかなわなかった覚えがあるよ。

これはデビューレースとなった'73年5月の富士。ドライバーは鮒子田寛選手。エンジンはトヨタ。


「ノバ01」は75年まで、トヨタ、ホンダ、日産エンジンを積んで戦った。75年にはホンダの高武選手がシリーズ2位になったけど、この頃になると、マーチ(733,743,753)や、アルマジロと呼ばれたアルピーヌA364など海外F3マシンの台頭が激しくて、国産マシンは厳しい戦いを強いられていった。

そんな中、ノバは76年からアルミモノコックの「ノバ513」で巻き返しを図ったんだ。このマシンは宮坂宏さんの設計。最近はチーム郷とともにルマンを戦ったりしている名エ ンジニアだよ。ところで、この「513」というコード、実は昭和51年作のFJ1300(F3)という意味だったんだよ。これは携わった人しか知らないんじゃないかな。レーシングマシンに昭和の元号が使われてるなんて、ちょっとおかしいでしょ。

この「ノバ513」は、77年のシリーズで中嶋クンが全戦ポール・トゥ・ウィンという偉業を成し遂げた。これは有名だよね。ほんとこの年は勢いがあって向かうところ敵なしだ った。この好成績に気を良くした当時のノバの社長(山梨さん)は、78年に海外レースチャレンジを決行した。FJ1300はちょっと改造するだけでF3に変身させることができたからね。もちろん、ドライバーは中嶋悟。エンジンはホンダから海外で実績のあったトヨタに換装したけど、国内最強のパッケージを引っさげて本場イギリスで一旗揚げようと目論んだんだ。国内ではマーチをかる〜く蹴散らしたんだから、海外でも勝てる……そう考えたんだろうね。

'77年パーフェクトでチャンピオンを決めた中嶋悟+ノバ513の最終戦の記事。(写真提供:autotechnic '78年2月号)

実はこのチャレンジのすぐ前にも、ノバは星野さんを擁してヨーロッパF2にスポット参戦していた(これにも僕は同行。この話はまた後日)。そこで惨敗していたから、たぶんその敵討ちの意味もあったんじゃないかな。

ところが、このF3遠征にメカニック兼なんでも屋として同行した僕は、再び日本と本場のレベルの違いを思い知ることになる。有名な中嶋悟ヨーロッパF3大クラッシュの影に は、あのF1シャドウチームが関係していた……という話は次回。影とシャドウ……シャレのようだけど、ホントの話だよ。



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