「風がカタチを造り出す。」
MOONCRAFT Quality.
Our Products
G.C.
GC21(2002年)
「GC21」とは、1970~80年にかけて富士スピードウエイで行われた通称「グランドチャンピオンレース」の復刻版として企画され、2002年に復活することとなったレースカテゴリーである。F3シャーシをベースにカーボンコンポジット製のボディーをまとった最新テクノロジーマシン。大きな特徴はステップドフロアを採用したことである。
MCS 7(1986年)
ジェフリースのドライブにより自チームがチャンピオンを獲得したマシン。MCS6の発展型だが、ヤマハ5バルブV6エンジン“OX66”の搭載も考慮し大型化を計られたリヤカウルは空力特性を更に向上させた。大型ブレーキインテークも採用されている。由良そして弊社が製作に関わったMCSシリーズとしては最後の作品となる。
MCS 6(1985年)
単なるMCS5のアップデート版ではなく、更なる進化を求めた100%ブランニューマシン。風洞実験の比重は更に増え、ムービングベルトによる100時間以上の実験で空力性能を改善する。NC切削を本格導入したボディー製作で仕上り精度も向上した。
MCS 5(1984年)
究極の空力性能を誇ったMCS4であったがグランドエフェクトが禁止されたためMCS3のコンセプトに戻して製作。長時間の風洞実験を重ね高次元でバランスの取れた良いマシンに仕上がった。
MCS 4(1983年)
時流に乗ってMCSもグランドエフェクトカーへと進化した。82年型マーチシャーシ用に製作したこの4はフロアー全面がボディーに覆われている。慣性モーメント減少をねらい前後オーバーハングを切り詰めサイドラジエターを採用。冷却風はボディー上面から取入れサイドへ排出するという大胆なレイアウトも外観上の特徴となっていた。
MCS 3(1982年)
MCS2を進化し81年型マーチシャーシ用に発展させたモデル。基本コンセプトは2と同じ。前年にフォーミュラで使用されたシャーシを翌年GCで使用するという効率的な使われ方をした。
MCS 2(1981年)
特注ワンオフマシンのロイスが大成功したのを受けてMCS2として進化商品化したもの。フォーミュラーシャーシを使用するロイスと同じコンセプト。ボディー上面は全部一体成型として密閉され構造の簡略化、空力性能の向上が計られていた。
希望(1980年)
原形は舘内端氏のデザインによる非常に複雑な空力理論特化型のGCカー。理論は良いがボディーの出来が悪くてまともに走らなかったため、リデザインを依頼されて改造を担当した。フォーミュラにボディーを乗せたような構造で、下面は後述のGC21のような凝った作りの完全なグランドエフェクトカーとなっていた。ただし当時は風洞実験を行わずに製作していたので効果のほどは定かではなかった。
ロイスRM-1(1980年)
GCのレギュレーションがCAN-AMを倣ってシングルシーター化するタイミングで、F2のフォーミュラーシャーシにボディーを被せる発想で解良喜久雄氏と組んで製作した初めてのGCカー。幅が広すぎる、壊れやすいと評判の悪かったマーチ792のシャーシをあえて使用した。ボディー全体でダウンフォースを稼ぐ内部が空洞の大型ワンピースボディーが特徴だが、これは模型のクリアボディーにヒントを得たもので内側に成型したポンツーンを装着して更に空気の抜けを良くするというアイデアを使っている。下馬評を覆しとにかく速いマシンだったため、以後製作されるムーンクラフトのGCボディー製作に非常に大きな影響を与えることとなった。
MCS(1979-80年)
75年に創立した弊社の歴史がここから大きく変わった記念すべき初めての自社企画製品。2座席のマーチの部品をフルに流用、オリジナルのシングルシーターシャーシとボディーをセット販売した。富士がGCをシングルシーター化したのはCAN-AMの復活を参考にしたからだが、ボディーデザインはCAN-AM風ではなく富士を意識し空気抵抗の少ないものを考えた。最初の年はまったく信用されずヒーローズチームの1台だけだったが速さが認められて翌80年には~7台が販売された。
サンダーLM39(1979年)
同じシーズンにF2とGC両方のカテゴリーに参戦できないかという斬新なアイデアのもとに開発された。基本構想は故・沢島武氏が作ったシャ-シに合わせてフォーミュラーにフェンダーを付けた形にして欲しいという前代未聞の内容だった。由良がとても楽しんで製作した一台。ただし、二兎を追うもの一兎を得ずという諺どおり成功作とは言えなかった。
NOVA53S/54S(1978年)
フォーミュラーで活躍していたNOVAが製作したGCマシンのボディーを担当した。米国の超高度偵察機SR71のイメージを引用した斬新なデザインが特徴。53Sではリヤウイングが装着されていたが翌年の54Sではウイングレスをトライ。当時ボディーだけでダウンフォースを生み出して走っていたという凄さ。このマシンはとにかく低くて広い。由良のお気に入りの一台である。
シェブロンB36改(1978年)
漆原徳光氏のオーダーにより、劣勢になってしまったシェブロンのポテンシャルアップを目指しボディーを全面的に改修した。シェブロンの苦手とした高速でのスタビリティーが改善されて好評を得た。
紫電改(1977年)
シャーシをマーチにスイッチし、ロータリーエンジンを搭載してダルノーズとショートテールに生まれ変わった紫電改は根本的なコンセプトが崩れて中途半端なものとなってしまう。富士1000キロレースにクラッシュして大破しその生涯を閉じた。
マクラーレンM12改(1972年)
当時のドライバー酒井正氏がGCで走らせていたM12を最新のM8Dのように、というオーダーでリヤカウルだけを製作したもの。M12の大きな板のようなリヤスポイラーが取り払われて軽く走るようになったとコメントされた。
紫電(1977年)
GCチャンピオンを取り尽くした高原敬武が次に興味を持ったのがオリジナルマシンによるGCへの参戦だった。富士専用マシンとして最高速度を追求しよりドラッグの小さいクローズドボディーとして製作された。シャーシはF1解説でもおなじみの森脇氏の設計。しかし外観の美しさに反して結果は芳しいものではなかった。
GRD S74改(1974年)
このマシンのボディーワークのオリジナルは入交昭廣氏(現・東京R&D会長)。オーナー生沢徹氏の注文により、当時流行のクローズドルーフ風のモデファイを採用して性能を向上させようとチンスポイラーからリヤカウルまで全面的に改修した。その後のGRDS76は幻の後継車。
ムーンクラフトマーチ(1974-75年)
高原敬武氏のマーチ74Sのフロントフェンダーを低くし、リヤカウルをクローズドルーフのように一体にデザインしたのが通称“ムーンクラフトマーチ”。
マーチ73S改/マーチ73S改74モデル (1973-74年)
“酒井マーチ”は、73年に低いフロントカウルやリヤウイングマウントを改造したマシンを製作。74年は100%新作のロングテールマシンを設計製作した。完全なオリジナルボディーという意味では由良の記憶に残っている作品のひとつという。
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Fomula Car
F4 MC-090
F20 MC-080
ローラMCS99/FN(1999年)
Fニッポンがローラとレイナードを導入してどちらかを選べという年。弊社はローラを選び大苦戦することになる。なんとか挽回するべく、手を加えられるところはすべて手をいれリファインして最速のローラ完成したのだが、結局レイナードにはかなわなかった。
ローラMCS94/F3000(1994年)
もともと性能の良いローラT94のL/Dをさらに向上させるため長時間にわたる風洞実験を行っている。重箱の隅をつつくような作業に明け暮れ細かいところを改修していった。
MC060EL/F3000(1992年)
その年のレースではローラを走らせながら平行して開発が進められたマシン。12月に発表し服部尚貴氏によって鈴鹿でテストされた。他車より2秒以上速かったら実戦投入するつもりでいたのだが惜しくも目標を果たせず。結局資金難のためプロジェクトは中止する。
ローラ90/00/F3000(1991年)
オリジナルのマシン製作は休止となったがF3000活動はル・ガラージュCOXレーシングチームと一緒に継続していくことになった。弊社のエアロダイナミックスを盛り込もうということになり、モノコックはそのままにサイドポンツーンやディフューザー周りをムーンクラフト流にアレンジしたオリジナルのボディーを纏う。
MC041B/F3000(1990年)
この年フットワークからムーンクラフトに社名を戻し、初心に帰りすべてを一新した完全なニューマシンMC050の開発に着手。完成までのあいだボディーをマイナーチェンジしたMCS041Bでレースに参戦する。残念ながら村松栄紀氏がテスト中の事故でなくなったため、MCS050の開発は凍結された。
MC031/F3000(1988年) MC040/F3000(1988年) MC041/F3000(1989年)
MC031は、ファーストモデルMC030に対策を重ねマイナーチェンジ版として実戦に投入された。ノーズやウィング、搭載するエンジン仕様などによって短期間にMC040、MC041へと進化しているが、基本的には同一のモノコックシャーシである。MC040は海外遠征にも使用され片山右京氏、デイブスコット氏がヨーロッパF3000シリーズに参戦。041はデーモンヒルのドライブでヨーロッパF3000シリーズに参戦している。
MC030/F3000(1988年)
フットワークのF1戦略第1弾として製作されたF-3000マシン。この年、弊社にフットワークの資本が入り社名を「フットワークフォーミュラ」と変更する。レースにはマーチ87で参戦し鈴木亜久里氏がチャンピオンを獲得。MC030はその後継機として開発されたがテスト走行のみで終了し、実戦には進化版のMC031が投入される。
NIKI79/F2000(1979年)
ニコ・ニコル氏(現アルピナジャパン代表)の発注で製作したムーンクラフトにとって初めてのウィングカーとなる。車体のほとんどが解良氏設計のアルミで製作されておりムーンクラフトが担当したのはノーズ先端からリヤカウルまでのセンターカウルのみであった。
ルナヌオーバ/FL500(1976-77年)
ワンオフのFL500マシン。故・沢島武氏が自費で設計/製作していたFL。ドライブさせてあげるからという誘惑に釣られてボディーを無償で製作し、由良がハンドルを握り富士のレースにデビューしている。
KE007&KE009/F1(1976年)
日本プライベーター発のオリジナルF1マシン。解良氏と小野昌昭氏共同デザインの車体に由良デザインのボディーカウルをまとう。富士F1予選では侮りがたいポテンシャルを示したがクラッシュしてしまい、翌日のレースまでに一晩でシャーシを作り直すという信じがたい逸話を生んだ。翌年更にリファインを受け009へと進化し全体に丸みを帯びたシェイプとなる。この009では高原氏、星野氏と複数台が日本F1に出場した。
NOVA513/FJ1600(1976年)
NOVA01の後継機。シャーシ/ボディーともにフルチェンジ。サイドラジエターレイアウトと3角形のスポーツカーノーズというオーソドックスなレイアウトだが抜群のバランスを誇り、のちに中嶋悟氏の全勝伝説を作った名機。
NOVA532/F2000(1976年)
NOVA02のマイナーチェンジ版。シャーシは02と基本的に同じ。ボディーはスポーツカーを意識したワイドボディーに変更し性能の良い会心の作となったが、ロードラッグ/ローダウンフォース仕様の富士/鈴鹿スペシャルとしてデザインしてしまったため、星野一義氏の海外遠征ではヨーロッパのサーキットになじまず手痛い目に会った。
NOVA512/F2000(1976年)
NOVA02のマイナーチェンジ版。02の特徴だったウィングノーズは結局時流のスポーツカーノーズにリデザインされて実力を発揮することとなり、翌年の1975年には複数台が販売されレースに参戦している。
NOVA02/F2000(1975年)
NOVAが製作した国産F2000マシン。解良氏と由良のコンビネーションで製作したこのマシンも解良氏はフロントウィングタイプをオーダー。当時速かったフェラーリ312Tを意識したウィングノーズを具現化しデザインされた。独特の格好から“フライングアリゲーター”と呼ばれた。
NOVA01/F2000(1974年)
シャーシを設計した解良氏のリクエストで当時の時流に反したフロントラジエター/ウィングノーズ仕様になっている。フロントスクリーンは左右2分割し、当時のジェット戦闘機のイメージを模してみた由良流の遊びを取り入れたデザイン。
ブラバムBT36改/F2000(1973年)
高原敬武氏の個人発注により製作したワンオフマシン。BT36F2のセンターセクションのみを残して、当時ウィングタイプだったノーズはスポーツカーノーズへ変更、リヤカウルはフルカバードしたロングテールの富士スペシャル仕様。空力性能は改善され大幅にポテンシャルアップした。
東京技研/FJ1300(1973年)
ムーンクラフト発足前の作品。ホンダのシビック1300ccエンジンを横置きのまま搭載した独特なワイドボディーは、ツインチューブモノコック内を冷却風が貫通して後部まで流れる構造になっている。現在、東京R&D社長の小野昌昭氏よりジオメトリーなどのアドバイスをもらい、シャーシからボディーまですべてを設計したマシン。
アウグスタMK 3/FL500(1972年)
レーシングクォータリーが販売したFL500。解良喜久雄氏設計のシャーシ用に製作。画像はサイドラジエターのスズキ水冷エンジン仕様なのでリヤカウルがないが、1970年第6回東京レーシングカーショーへ出展した発表時はホンダの空冷エンジン仕様だったので後部までフルカウルされておりスマートなマシンだった。
フォーミュラ2000(1971年)
由良による初期の作品のひとつ。 飛行機をデザインモチーフとしているため随所にそのディティールが盛り込まれている。小野昌郎氏に依頼されて由良曰く「ただただうれしくて」レーシングカーのなんたるかも知らずに情熱と勢いで製作したマシン。
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Sports Car
SGT LOTUS EVORA
SUPER GT 300クラス参戦のために「LOTUS EVORA」をベース車両として開発されたスポーツカー。
紫電
・SUPER GT 300クラス参戦のために開発されたスポーツカー。
・2006年度から参戦し、2007年度にはチームチャンピオンを獲得、2012年度まで実に7年間に渡りトップグループ争いを繰り広げるパフォーマンスを発揮した。
子紫電-R
子紫電
Tottini
・ミニ・モークのフレーム形状にインスパイアされて開発したスポーツカー。
・ワンメイクレースのためのモーク・スポーツから派生したナンバー付スポーツカー。
モークスポーツ(1993年)
モークの剛性のあるツインチューブモノコック構造を利用してスポーツカーができないか、という発想から開発されたレーシングカー。量産化されワンメイクレースも開催された。ナンバーを取得したロードバージョンも存在する。
ヤマハOX99-11(1992年)
ヤマハが94年市販に向けて92年に発表した超高性能スポーツカー。コンセプトはロードゴーイングF1で、センタードライブのコクピットが特徴。V型12気筒3.5Lエンジンを搭載している。結局市販化はされなかった。
MCSグッピー(1983年)
簡単に言えばMCSをクローズドボディー化したもの。マーチ2座席のシャーシにマツダ717Cのフロントガラスを流用してルーフを造形。図面も引かずスタイル優先して製作された。バランスが取れていて乗りやすいと好評でJSPCのC2クラスのプライベートチームに重宝がられた。
マツダ727C/737C(1983年)
ともに717Cをベースにグランドエフェクトを追求したモデル。具体的にはCP値の調整を行った。この開発ではムービングベルトを製作してJARIに持ち込み風洞実験を行っている。このあと弊社はフォーミュラー製作に集中したため、マツダスピードとのル・マンカー製作はこれが最後となった。
マツダ717C(1983年)
マツダスピードのル・マン挑戦は83年、C2クラス(当時はグループCジュニアと呼ばれた)への参戦で本格化する。シャーシとボディーの設計を弊社が行い、シャーシ製作はアストニッシュが担当。ル・マンということで最高速アップが最大の目標となり風洞実験ではCD値はコンマ3を切った。ただしムービングベルトではなかったためグランドエフェクトは発生していたものの、CP値があまり良く無かったらしく走らせるのには少なからず苦労をした。かわいらしい外観からついたニックネームが『そら豆』。
マツダ251/253/254(1979年)
マツダスピードのル・マン挑戦のマシンを製作。251は予選中にエンジンが壊れレースは不出場。エンジンをインジェクション化しパワーアップしたのが252。高性能化に伴い大きなサイズのタイヤを装着する必要からフェンダーを大型化してダウンフォースを増やすべく改良したのが253。それまでの経験を盛り込み完全にリニューアルしたのが254。254は由良のお気に入りで自信作のひとつである。フロントのアルミ製ロータリー型のインダクション入り口や、テールエンドのMAZDAロゴのレリーフなどに由良流の遊びが盛り込まれている。
RQC NOVA(1970年)
ローコストに挑戦して製作した軽の2座席スポーツカー。左右のフェンダー形状は同一のもので共有し、その間を平板でつなぐというアイデアで製作している。
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Development
P-BIKE(電動アシスト自転車)
個人オーナーのオーダーで製作した「箱根道移動専用の電動アシスト付きCFRP自転車」。
オリジナル形状のカーボンフレーム、新しいアイデアのフローティングサスペンション、
箱根道移動専用のためロードバイクよりも太いタイヤ、電動アシストが目立たないようバッテリーはサドルバックへの収納タイプを選択。
最新テクノロジーの自転車だが、オーナーのこだわりでパーツは70年代のCAMPAGNOLO(カンパニョーロ)製。
CFRPフレーム 折りたたみ自転車
CYCLE工房fillとムーンクラフトが共同開発した「カーボンフレーム 折りたたみ自転車」。
折りたたみ自転車の理想を追求し、「軽量コンパクト」「優れた走行性能」「簡単な折りたたみ操作」の三要素を成立させた
CFRP製フレームを装備するハイスペックモバイルバイクです。
詳細はこちら🔗
MOONCRAFT CFRPカヤック / CFRPパドル
ムーンクラフト製 オリジナルCFRPカーボンカヤック/CFRPカーボンパドル
カヌースラローム・男子カヤックシングルの足立和也選手を、ムーンクラフトはCFRPカヤック/パドルの開発・製作でサポート
Jet Fishing Boat 「波走者」
ヤマハAR190をベースに、スタイリングスタディーしたフィッシングボート。
モデル名は、北米市場を意識して“WAVE RUNNER”を日本語直訳したネーミング「波走者」(はそうじゃ)。
FIAT500用 リアスポイラー
由良デザインのFIAT500用大型リアスポイラー。ボディ無改造でFIAT500へ装着可能。
(※写真はアバルト595への装着例。アバルトのエンブレム取付には小改造必要)
受注生産受付中です。こちら からお問い合わせください。
横浜ゴム株式会社、AERO-Y発表
・横浜ゴム株式会社が「タイヤ事業部、航空部品事業部、ハマタイト事業部」といった各部門の技術を結集し、「空気」「空力」をテーマとして次世代車両を提案するプロジェクトに参加。
JR九州 大分駅 電動ミニトレイン「ぶんぶん号」
「Don Design x MOONCRAFT x ㈱京和」のコラボレーションで、2012年にリニューアルしたJR大分駅構内を運行するクリーンな電動ミニトレインを開発。
Mooncraft ジュラルミンユニット for iPhone
ジュラルミン削り出しiPhoneケース「Mooncraft ジュラルミンユニット for iPhone」を開発、販売。
SUS x MOONCRAFT 「アルミ自転車」
SUS株式会社様の創立20周年を記念する企画として、アルミ押出材を使用したアルミ製自転車を開発、製作。
パラボラリフレクターと検査治具
・2012
・CFRP + AL Frame
AEROPRIUS – YURASTYLE neo
・AEROPURIUS – YURASTYLE 第二弾。
・再び横浜ゴム株式会社とジョイント、ブルーアースタイヤを装着して御殿場~山口間を往復する1000mileチャレンジで36.1km/Lを記録。
AEROPRIUS – YURASTYLE
・AEROPURIUS – YURASTYLE 第一弾。 ・横浜ゴム株式会社とのブルーアースタイヤを装着してのジョイントプロジェクト、東京から熊本までを無給油走破する1000mileチャレンジで34.4km/Lを記録。
CARS
ディズニーランドでの立体展示車両。
HONDA RA272 & RA300
・細部まで入念に作りこまれた復元車両。
・2005年度「Good Wood Festival of Speed」にて展示。
TRIKE
ディズニーランドでパレードに使用する電動バイク。安全にウイリーしながら走れる工夫がされている。
SEIKO PROSPEX 由良拓也Ver.(2004年)
SEIKOが国産クロノグラフ誕生40周年を記念して製作したシリーズの第一弾。普段触らない機能は中に納めるというコンセプトで開発されており、通常使用時においてリューズ、プッシュボタンは格納されるため誤操作の恐れがない。
6×4.com
・由良が20歳のころ描いていたシティコミューターのデッサンから生まれたスマート・クーペをベースとした独創的6輪車。 ・2003年度東京オートサロンに出展、コンセプトカー部門グランプリ受賞。
MC-30VQ/VQローラ(2001年)
Fニッポンで使用された99年ローラに、日産VQ30エンジンをドライサンプに改造して搭載。走行会用に仕立てたマシン。
トミーカイラZZ(1995年)
ボディーデザインを担当する。最初のデザイン提案、1/5クレーモデルから1号車試作までの開発を行なった。
KE CAT(1992年)
コジマエンジニアリングの小島氏の依頼で製作された小排気量のレーシングボート。カタマランのレース艇にフォーミュラのセンターカウルを取り付けたようなイメージで製作した。
MC070(1992年)
コストパフォーマンスに優れたカーボンモノコックを製作し、入門用の低コストなソーラーカーを提供しよう、というコンセプトで開発。アルミ板を折り曲げた型に積層してモノコックを成型したり、サスペンションにオートバイのフロントフォークを使ったりと様々なアイデアが盛り込まれている。
ショウエイX-1(1991年)
アイルトン・セナにかぶらせる、というオーダーにより製作し量産化された。由良自ら試作品をかぶり風洞で実験を行ないながら開発した。
サクラクレパス・アーキバージョンY/Y2 (1987年)
Y2はドイツ・ミュンヘンにあるDie Neue Sammlung-Staatliches美術館が発行する1988/89年度の年鑑に、同美術館認定のパーマネントデザインとして掲載されている。“Y”はエキゾーストのイメージで、“Y2”はフラッシュサーフェイスがコンセプト。
タミヤ・ビッグウイッグ(1986年)
パイクスピークのフォーミュラをイメージしてデザイン。その後のタミヤのラジコンデザインに少なからず影響を与えた。
ホワイトブル(1984-85年)
チーム生沢/無限/ムーンクラフトのコラボレーションで製作した鈴鹿8耐用バイク。当時水冷V4が主流のなかで空冷インライン4での挑戦は厳しいものであった。